2006,10,06, Friday
ススキを見るとなんとなくうら寂しい気持ちになります。
大勢でワッサワッサ生い茂って風に揺られている姿は、 見れば満員電車にすし詰め状態な人々の風でもあり、 寂しいとはおよそ縁遠い気がしなくもないのですが、 初秋から晩秋に移行する今の時期の切ない気持ちを 重ね合わせて見てしまう、っていうだけの理由かな。 先人の作ったイメージに負う所が大きいのでしょうね。 真夜中の真っ暗な人けのない道をたった一人で歩いて行く。。。これはかなり寂しそうです。 幸いな事に今までそういうSituationにぶつかった事のない私には想像しか出来ませんが。 上の例の寂しさのキーワードは夜、暗い、辺りに誰もいない、一人ぼっちである、ですが、 これとはまったく逆の状況で、充分に寂しさを感じられるお気に入りの場所があるんです。 池袋の駅からサンシャインビルに向かう途中、ハンズ入り口横の大きなエスカレーターを 下まで降りて、通路が左に折れるあたりの正面にドーンとそびえている太い丸い柱。 この無機質な冷たい柱に身を持たせて10分も時間をつぶせば、バッチリ寂しくなれます。 照明は明るく、人がワサワサ、キーワードとは正反対の中、自分を包む圧倒的な孤独感。 グループあり、カップルあり、一人急ぎ足で、と様々な人が周囲を通り過ぎて行きますが、 その誰として自分を知る人が居ない、彼らにとって自分は存在しようがしまいが関係ない。 自分が生きていようが死んでいようが、誰も何も気にしないのだという存在感の薄さ。 ここに立っているのは、少し昔の事件がきっかけで流行った、『透明な存在』の自分です。 その風景の中にしばらく身を置いた後の、待ち合わせした家族との再会は最上級の喜び。 待ち合わせ時間がとっくに過ぎてるよ!って怒鳴りたい気持ちもどこかに吹っ飛んで、 自分は一人ではない事を再認識して、家族への感謝と、共に居られる嬉しさにヒタレマス。 最近ご家族に不満をお持ちの方(私は違いますケド)、雑踏の孤独を一度お試しあれ^-^; ※もち、上記以外の場所でも人がワサワサ通過している所ならどこでも良いんですし♪ |
2006,09,24, Sunday
車窓から…優雅な話なら良いんですが、
運転モラル、地に落ちたどころか地下に潜ってますね。 飲酒運転をしないなんていうのは当然のことなのに、 それすら守れないような奴にまで免許持たせる甘さ。 最近になってやっとマスコミも騒ぎ出したけれど、 表面に出るのはごくごく一部。あの何倍の人間が 混濁した意識でハンドル握っているかと思うと。。。 法規制などどこ吹く風で、未だに携帯電話片手に談笑しつつの運転、 トラックの高い座席で、ハンドルに広げた漫画雑誌を読みふけりながら前方をちら見運転、 車の大きさをカサに着て、青も黄色も赤も進めの横暴な運転、 こんなのばっかりでは、周囲は危なくって命がいくつあっても足りそうもありません。 先日、助手席の車窓から、想像を絶する運転の車を見ました。 片側2車線の道路で左前方を走る車が、蛇行したり車間距離を開けすぎたり、挙動が変。 何が起きているのか気になって、丁度横に並んだ時に車中を覗いて見たんですけどね。 若いおねーさんが一人、ルームミラーとにらめっこでヘアスタイルのチェック中でした。 毛先のはね方が余程気に入らないのか、何度も何度も髪に手をやって直しています。 軽く渋滞だったので、数分併走していたんですが、そのうちにお化粧をし始めました! パフでお粉をパタパタ、口紅を付けて唇ムニュムニュ、マスカラまで付けてるよぉ~。 その間、前方も見なければ周囲の確認もなしの運転です。ひょっとして超能力者か? |
2006,09,05, Tuesday
三題噺のようで何ですが、昨日のタイトルで思い出したので。ちくっと。
最近どうも気になってならないのが、若い女性の歩き方。 なかでも、ミュール…と呼んで良いのか?と不安になるほどの、 チビけたサンダル風の物を履いている女のコたちは歩き方が実に変。 サンダルは踵がはみ出るくらいのサイズを履く<これは正しい。 でも、中には土踏まず辺りまでしかない(ダイエット用か?)のを履いている人もいます。 その足でペタペタヨチヨチ覚束なく歩く姿を見ると、纏足でもしているのかと思うほど。 将来彼女たちの世代にひょっとしたら介護して貰うのかも、と思うとちょっと不安です。 先日買い物中に、店先のスロープで小さい女の子が転倒し、頭を打って大泣きしました。 足元を見ると、小さなプクッとした足にそれよりなお小さなミュールを履かされています。 連れの女性が二人、交代で泣きじゃくる女の子にお説教。曰く 「ほぉら、転んだ。(そこを歩いちゃ)駄目って言ったでしょっ?」 「駄目って言われたのに聞かないから転んでも仕方ないね!」 イヤ、そんな小さな女の子にミュール履かせる方が駄目だと思うゾ。 |
2006,08,11, Friday
10年ほど前から、もの凄く食の細い人になりました。
20代の頃は、一食がラーメンと餃子と炒飯だったり、 カツ丼とカレーライス、なんて恐ろしい食事をしたり、 家でも大振りの丼タイプ茶碗でご飯を食べるのが なんでもない普通のこと、の大食漢でした。 学生の頃の記録はご飯茶碗6杯の白米。 炊飯器が空っぽでそれ以上お替りが出来なかったので。 体重は当時の方がずっと軽くて40キロ以下。(身長は今と変わらず) 今はひよこの餌くらいしか食べないのに、7キロほど増えちゃってます。 代謝が衰えたのか、運動不足か、お腹は殆どすかなくなったのに、 家族の食事時間に合わせて少量を口にする程度でもしっかり体重維持。。。フクザツ。 三度のめしより、料理を作る方が好き、の体質に変わったようです。 食材のまとめ買いから始まる、お料理のプロセスが実に面白い。 週の大まかな献立を立てても、「○○で無くてはならない」は一切なしで、 冷蔵庫の食材と相談しつつ、流動的に料理を考えていくのはパズルのようです。 反面、とても苦手になったのが外食。 上述したように食が細くなったので、一人前を食べきらないのが悔しいから。 高齢者用にお子様ランチ風のものを用意しているお店もあるようですが、 残念なことにそれを注文できる年齢資格にはまだまだ達していません。 あれって10も20も多くサバを読んで、若く見えるが高齢者だ!って言い張ったら、 証明書見せろって言うんでしょうか?まだ試したことは無いですけど。 まったく知らない人と食事を共にするシチュエーションも嫌なことの一つです。 都内の、腕が触れそうにテーブル間隔の狭いレストランで、 隣のテーブルに座った方がくちゃくちゃ音を立てて食事する横では いくら美味しい料理を並べられても気持ちが悪くなるだけです。 ファミレス等に乳幼児を連れて来るのも勘弁して欲しいことの一つ。 子どもに店内を走りまわらせて平気でおしゃべりしているお母さんは論外ですが、 何より困るのは小さい子の泣き声。母性を刺激されて、胃がギュッと縮まります。 「そこの女性の方(お母さんである必要は特にない)、私はお腹がすいています。 (もしくはオムツの中が不快だ、または熱っぽくて体調が悪い、等々) あなたの食事(または睡眠etc.)は後回しにして私の面倒を見てください」 乳幼児の泣き声にはきっとそういう意味があるのだと思っているので。 余談ですが。。。数年前、某大手スーパーの店内の軽食コーナーでのこと。 買い物で疲れて一休み中の私の横に、可愛らしい若いママが座りました。 抱っこされている、生まれて間もないような赤ちゃんがむずかっているので、 「小さな赤ちゃんを人混みに連れて来ちゃマズイでしょーに」と思って見ていたら 彼女、こちらを向いてにっこり花のように笑いました。 どこへ行っても可愛らしい赤ちゃんと可愛らしいママのセットは賞賛を浴びていて、 苦く思って見ている人なんてこの世には存在しないと思っているようなキラキラ笑顔。 それからおもむろにむずかる赤ちゃんを私との間に寝かせて。。。オムツを外しました。 「え?え?ここって食事する場所だよ、他の人もほら、ラーメンとか食べてるんだよ」 私は叫びました。(もちろん心の中で)手にしたコーヒーカップを取り落としそうになりながら。 幸いオムツの中は無事。<しっかりチェックした自分がイヤ。 彼女はまたに~っこりと笑いながら新しい紙オムツを取り出して交換し。。。 私がコーヒーを飲み終わるまでの短い間に、彼女は一連の作業を2度やりました。 こわばった笑顔を浮かべつつ私が席を立った後に座った人が、 彼女に酷い言葉を投げたりする人でなかったら良いのですが…って今更ですが。 |
2006,07,29, Saturday
雨の予報を大きく覆して、気持ちの良い空に恵まれた。
土曜日、雨かよ。。。と少し凹み気味だった心が一気に↑ だって、晴れ女の誕生日だもん。お日様が似合うよ。 今朝、誕生日のお祝いを幾通か頂きました。 覚えていて下さった=気にして下さっている事だよね。 と、素直に受け止めて喜んでいます。アリガト>皆様。 以前は、年齢を重ねると誕生日は嬉しくないのでは?等と勘ぐったりもしたけど、 いざ毎年1つずつ確実に年を重ねて来た今、誕生日はやはり嬉しいものだと思っています。 形式的な「お誕生日おめでとう」とは受け止め方が少し変わったかもしれないけれど、 長い年月、共に過ごしている家族やペット、仲良くしてくれる幾人かの友を思っては、 この広い時間と空間の中で、たまたま出会えたという稀有な巡り合わせと 幾つものシーンを共有することが出来た喜びに心が満たされていきます。 ここに至るまでに再び会うことが叶わなくなった幾人かの知人を思っては、 きっともっとずっと長く生きたかったであろう、彼らの人生を偲んで懐かしみます。 私がここに居るということは、心の中の彼らもまた存在するということ。 思い出すことが一番の供養だ、とは地方のアバラ寺18代目にあたる祖母からの受け売り。 会えなくなってもう10年が経つ祖母も、今でも笑いかけ、時には相談相手になってくれます。 何一つ名を成すことも出来ず、いつもどこか中途半端な気がして沈む日もあるけれど、 大きな病気や事故で周囲に心配を掛けることもなく、自分の事は自分で出来る毎日。 こうして健やかに生きているというだけでも偉いじゃん。そしてオメデト♪>私。 |